砂漠の狐日誌

このブログでは自分の日常や趣味のこと、そしてWWⅡのドイツ軍と日本軍のことについて書いていこうかなと思います。 *このような内容に不快感があるひとは見ないほうがいいです。

 
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今日はハリコフ防衛で活躍したエアハルト・ラウス上級大将についてです。

 エアハルト・ラウスは1889年8月1日にオーストリアメーレン州のヴォルフラミッツで生まれました。
 彼は第2次世界大戦では、1940年7月15日に第4狙撃兵連隊長に任命されたのをきっかけとして1941年4月15日には第6狙撃兵旅団長となり、バルバロッサ作戦に参加しています。その後、同年の9月15日に装甲兵少将に昇進し、翌年の4月1日に第6装甲師団長に任命されています。
 
 1942年12月~翌年の2月にかけてのスターリングラード攻防戦では、クノーベルスドルフ陸軍装甲兵大将の指揮下で絶望的な状況の中であったのにもかかわらず、第6軍救出にあと一歩というところまで迫っていました。

 1943年1月1日に装甲兵中将に昇進して、3月1日には第11軍団長に任命されています。同年8月の第4次ハリコフ攻防戦では、圧倒的に優勢であったソ連軍のヴォロネジ方面軍・ステップ方面軍の2個方面軍を相手に、5個の歩兵師団と1個装甲師団で防衛戦を展開し、2個方面軍に甚大な損害を与えてハリコフの維持に成功しています。

 このハリコフでの功績によってラウスは全軍で280番目の柏葉騎士十字章を受賞しました。そして、同年5月1日には装甲兵大将に昇進し、10月に第47装甲軍団長に任命され、11月1日には第4装甲軍司令官に任命されて南方戦域の建て直しに尽力しました。

1944年4月22日に第1装甲軍司令官となって、8月15日に上級大将に昇進しています。翌8月16日に第3装甲軍司令官に任命されて、リトアニアでの防衛戦の指揮をとります。しかし、1945年3月10日に解任されています。

 その後、アメリカ軍の捕虜となり1947年まで収監されていました。しかし、特に重大な戦犯として裁かれること無く釈放されています。そして、1956年3月4日にザルツブルグのバート・ガシュタインで亡くなっています。

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2008年01月23日

ゲーレン

今日はドイツの諜報機関で対ソを中心に諜報活動で活躍したラインハルト・ゲーレンを紹介していこうかなと思います。
 
 ゲーレンはプロイセンの中産階級出身のドイツ軍人で、1902年の4月3日に生まれました。彼を知ってるという方は、対ソ連諜報を担当する陸軍参謀本部東方外国軍課の課長を見事に務めたということで有名なので知っているのではないでしょうか。・・・自分もそうだったりします(笑)。彼は国防軍情報部のカナリス海軍大将・国家保安本部の外国諜報部門である第ⅤⅠ局のヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将と並んでドイツ諜報活動の中心人物でした。
 
 1936年にアドルフ・ホイジンガー大佐の参謀本部第1部の作戦課に配属します。彼は東部戦線の停滞が目立ち始めた1942年に東方外国軍課に異動して、ソ連に反発するバルト諸国出身者やソ連軍捕虜を活用して広範囲な対ソ諜報網を立ち上げることに成功します。捕虜となった赤軍のアンドレイ・ウラソフ将軍を反共祖国解放軍の指揮官に持ち上げ、反ソ宣伝に活用したりもしています。
 
 1945年の春にドイツ国境に迫る赤軍の重大性に注意を喚起しようと、陸軍参謀総長グーデリアンはゲーレンに総統大本営にてソ連戦力を分析させるが、ヒトラーの逆鱗に触れ、二人とも解任されてしまいます。ゲーレンはドイツが降伏すると、防水ケース50個に詰め込まれた飛行場、発電所、軍需工場、精油所等のソ連軍事情報を手土産に部下ともにアメリカ軍に投降しました。
 
 戦後は、米軍情報機関に協力して生き残り、ゲーレン機関を設立しています。ゲーレン機関とは戦後初期に米軍の後押しで組織された対ソ諜報組織であって、名称はもちろん彼の名前に由来します。アメリカ軍は、冷戦に備えて対ソ諜報網の重要性を認識し、ゲーレンを手厚く保護した上、彼が組織したスパイ網を利用していました。ゲーレンはアメリカから資金提供を受けて、CIAと協力しここでも対ソ諜報戦の中心人物となります。ゲーレンの協力者には親衛隊隊員やゲシュタポのクラウス・バルビー氏などがいました。
 
 ゲーレン機関のスパイ網は広くソ連・東欧諸国に張り巡らされて1955年に創設された西ドイツの諜報機関であるドイツ連邦情報局の初代局長をつとめ冷戦下のNATO諸国の主要情報源となった。1979年6月8日に死去しています。

2007年12月21日

ハンス・クレープス

クレープスはヘルムシュテットの出身で、1913年に家族はゴスラーに移ります。クレープスは学校での成績は優秀で、飛び級をしています。
その後、第1次世界大戦が勃発すると16歳で兵士に志願し、第10猟兵大隊に所属してフランス戦線に従軍、ヴェルダンの戦いに参加します。  1915年に少尉に任官して、終戦後の1919年に再び陸軍に戻り、ブラウンシュヴァイクの第17連隊第1大隊に所属します。1920年には結婚しており、娘を二人もうけています。中尉として参謀教育を受けて1927年に第6工兵大隊に転属し、翌年の1928年に第17連隊に戻っています。1930年に大尉に昇進していたクレープスはベルリンの国防省に転属します。1933年から1年間のモスクワ駐在武官を経て、各部隊勤務ののち1937年にベルリンに戻っています。
 第2次世界大戦勃発後の1939年に中佐に昇進して陸軍総司令部に配属されています。その後、まもなくして第7軍団参謀長になっています。1940年には大佐に昇進して東部戦線に配属されて、1943年には少将に昇進して中央軍集団参謀長にと順調に昇進をしていきます。この間鉄十字章など受章多数しており、事務能力だけが優れていたわけではなかったのかもしれません。クレープスは勤務態度から熱心な『国家社会主義者』と評価されていました。
 ここからは映画の『ヒトラー最後の12日間』にクレープスも出ていたのでご存知のかたもいらっしゃるかもしれません。1945年3月29日に数日前にヒトラーと対立したグデーリアンの後任として参謀総長に任命されています。グーデリアンとヒトラーの対立がクレープスの運命を左右したのかはわかりませんが、4月29日にはゲッベルス、ブルクドルフ、ボルマンらとともにヒトラーの遺言書に証人として署名しています。
 ヒトラーの自殺後に帝国宰相となったゲッベルスの指示によって、ソ連との分離和平交渉を任されています。これを任されたのはモスクワ駐在武官の経験とロシア語の知識をかわれてのものでした。1945年5月1日午前2時にクレープスは総統官邸を出発し、午前3時50分にベルリン・テンペルホーフにあったソ連第8親衛軍司令官チュイコフ上級大将の司令部を訪ねます。案内するソ連軍の高級将校たちにゲッベルスの書簡を示して、自分が停戦交渉の全権代表であることとヒトラーが自殺したことを告げました。驚いたチュイコフは上官のジューコフ元帥に電話してヒトラーの死を報告し、それは即座にスターリンに伝えられました。スターリンは停戦を拒否して、ドイツの無条件降伏を要求しました。クレープスはソ連側の許可を得て、総統官邸にあるゲッベルスに電話してソ連側の要求を伝えたのですが、ゲッベルスが峻拒して12時間にわたるクレープスの交渉は無駄に終わったのです。
 総統地下壕に戻ったクレープスは、地下壕から脱出する者が相次ぐ中、ブルクドルフとともに残り、ゲッベルスらが自殺した後の午後9時半頃に地下壕の倉庫で自殺しました。一般にクレープスは映画でもあったようにピストル自殺したと言われていますが、5月8日に検死したソ連側の解剖報告書によれば、彼が青酸カリで服毒自殺したことになっています。さ~どっちを信用するかはあなた次第(笑)参謀総長として降伏の責任者だったクレープスが自殺したため、前線司令官であるヘルムート・ヴァイトリンクが事態の収拾にあたっています。

2007年11月07日

すご!!

みなさんは第2次世界大戦で11名で敵国の首都を占領されたことがあったのはご存知でしょうか??もちろん11名で敵国の首都を占領したのは我らが武装SSです(笑)今日はこんな11名で敵国の首都を占領した際のお話です(笑)

 今日の話は1941年4月始めまでさかのぼります。このころドイツ軍の3個装甲軍団がユーゴスラヴィアの首都ベオグラードを目指していたのです。この3個装甲軍団の編成内容は、ハンガリー方面から侵攻してきた第46装甲軍団・ブルガリア方面から侵攻してきた第14装甲軍団・そして、今回話の中心となるルーマニア方面から侵攻する第41装甲軍団というものでした。

 4月11日に第41装甲軍団に所属するSSライヒ(ダス・ライヒ)師団は、ベオグラード北東のルーマニア国境付近から進撃を開始しています。ライヒ師団は、北側にゲオルグ・ケプラーSS准将率いるデア・フュラー連隊・南側にヴィルヘルム・ビットリッヒSS大佐が指揮するドイチュラント連隊がいました。さらに、この時に南側を進むフォン・シュトックハウゼン大佐が率いる国防軍のグロス・ドイチュラント連隊もベオグラードを目指していたのです。自然的に、SS2個連隊は国防軍の精鋭とベオグラードの一番乗りを目指して競い合う格好となったのです。

 ライヒ師団は、沼地に行く手を阻まれて困難な状況下で敵の反撃を排除しつつ前進する必要があったが、4月11日の夕方にSSドイチュラント連隊がベオグラードの北東のパンシェボという町の近くまで進出しました。国防軍のドイチュラント連隊よりも早いものでした。SSのドイチュラント連隊はパンシェボへの進撃を続けて、フリッツ・クリンゲンベルクSS大尉が指揮するSSオートバイ大隊2中隊が先鋒を務めました。

 SS将兵は国防軍のドイチュラント連隊を大きく出し抜いて、4月12日にはパンシェボに達していました。ここまで来ればドナウ川を挟んで目の前がベオグラードという位置でした。この際、先鋒を務めたオートバイ中隊のクリンゲンベルクSS大尉は、渡河禁止の命令が届く前に、モーターボートを使って11名の兵士を率いてドナウ川をわたりました。クリンゲンベルクは勇敢にもベオグラード市内に突入して国防省を占領して、1941年4月12日18時45分に市長から市の降伏を取り付けることに成功したのです。

 クリンゲンベルクSS大尉、さらに大きく見れば武装SSはわずか11名で敵国の首都を占領するという快挙を大胆にもやってのけたのです。やはり武装SSは凄いですね(笑)

2007年11月05日

空の砲兵

空の砲兵ことユンカースJu87は、ドイツにおいて第2次世界大戦中に使用された急降下爆撃機で有名です。愛称の「シュトゥーカ」とは、急降下爆撃機を意味するものでドイツ語で「Sturzkampfflugzeug」(シュトゥルツカンプフルークツォイク)の略で、本機が急降下爆撃機の代表として扱われたため、この名が用いられるようになりました。日本語では「スツーカ」と表記されています。第2次世界大戦以前の1935年春に初飛行を行っているにも関わらず、後継機に恵まれなかったこともあってドイツ軍には珍しく大幅なバージョンアップも無く終戦まで使用され続けた機体です。
Ju87の特徴といえば逆ガルとサイレンでしょう。まず、逆ガル主翼は逆ガル式の翼が生み出す下方視界の良さと、安定した急降下性能のため精密な爆撃を行うことが出来きました。そしてサイレンは元々特別に取り付けていたわけではなく、急降下時に発生した風切り音がそのように聞こえただけした。音の発信源については2つの説があり、1つはダイブブレーキのスリットが発生させていたという説でもう1つは主脚から発生していたという説です。その後、威嚇効果の高さが認められ、B型やD型の一部の主脚根本にプロペラ状のサイレンをとりつけた機体が製造されました。 この風斬音を「悪魔のサイレン」・「エリコのラッパ」と連合軍兵士に呼ばれそして恐れられました。
しかし、Ju87は急降下爆撃機の特性ゆえの弱点がありました。それは、速度が遅く鈍重で防弾設備が貧弱だったため、空戦能力は低く制空権を確保した状態での攻撃にしか適さなかったうえに航続距離が短く行動半径が狭かったという弱点がありました。開戦当初のJu87は大きな戦果を上げましたが、ドイツ空軍上層部はこの戦果を過信し、「急降下爆撃こそが至上の爆撃である」と誤った認識をもった者が多かったようです。 そのため、戦略爆撃機He177を含めた水平爆撃を任務とする機体の多くに急降下爆撃能力を求めたり、戦略爆撃機、後継機の開発を怠るなど開発に悪影響を与えたのも事実です。また、その認識の甘さはバトル・オブ・ブリテンでの大損害を生む原因ともなったのではないでしょうか。その後、1942年頃から陸上では単発爆撃機は活躍の場を失いつつあり、戦闘機が爆装しその任務を兼ねることが多くなっていましたしかし始めにも書いたようにJu87は後継機に恵まれなかったためダイブブレーキを外し襲撃機として生産され続けました。
Ju87の開発はみなさんがご存知のとおりユンカース社で主任設計者はヘルマン・ポールマンという人物がつとめていました。モックアップは1934年に、そして1935年にドイツ空軍省による競争審査に勝利し正式な生産命令を得ました。このときの対抗機種は、アラド社・ハインケル社・ブロームウントフォス社のそれぞれAr81・He118・Ha137でした。Ju87の試作機は3機製作されそれぞれV1~V3の番号があたえられており、V1は双尾翼でダイブブレーキがついていないのが特徴で、試験中にキリモミ状態になり墜落し失われています。
 最初の量産型Ju87A型は1937年から生産が開始され、スペイン内戦で実戦投入され多くの戦果をあげており、また同年に改良されB型として生産されたものもスペイン内戦に続けて投入されました。1939年にはじまるポーランド侵攻や開戦当初の電撃戦において非常に大きな戦果を挙げましたが、1940年のバトル・オブ・ブリテンでは、制空権を確保していない地点への投入によりスピットファイアやハリケーンなどのイギリス軍機に多数が撃墜され、大きな損害を出しました。以後さまざまなタイプに発展しながらも、大きな改変は無く終戦までに約5709機が生産されています。1940年以降は主にアフリカ戦線および東部戦線に配備され、特に東部戦線においては絶大な対地戦闘能力を発揮しましたが、大戦後半には本機の性能では昼間の作戦行動は自殺行為となっていき夜間行動型に改修されて使用されました。なお、本機に代わって昼間の地上支援任務についたのはFw190の戦闘爆撃機型でした。
 Ju87自体ははその操縦の容易さからも前線のパイロット達に好まれ、各シリーズ、特にGー1型を愛用したハンス・ルーデルは終戦までに519両(630両との説もある)もの戦車を破壊しました。

flash時計「アクア」

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